Vakhmistrov's Zveno
バクミストロフ空中空母計画と大戦間の赤色空軍の航空機





R-1





Zveno-1













Zveno-2





Zveno-5





Zveno-6





Zveno-7





Zveno-SPB





開発経緯

親子飛行機のアイデアは、空軍科学研究所(VVS NII)のV.S.バクミストロフ(Vakhmistrov)技師によって提案されました。
R−1(DH−9Aをロシアでライセンス生産)から無人標的グライダーの発進を成功させていたバクミストロフは、爆撃機に遠く及ばない護衛戦闘機の航続距離を、その爆撃機に搭載することで延長しようと考えました。

(因みに親子戦闘機のアイデア自体はバクミストロフが最初では無く、1916年5月にイギリスでテストされています。)

1931年12月3日、モニノ飛行場で最初の試験が行われました。
これはズベノ(Zveno=連結)と呼ばれ、TB−1双発爆撃機の翼上面には、V.P.チカロフとA.アニシモフの乗り込んだI−4戦闘機が左右各1機ずつ固定され、バクミストロフもオブザーバーとして搭乗していました。
エンジン全開で離陸したZ−1は、高度3000メートルでの切り離しに成功、2機のI−4は無事帰投しています。

Zveno−1A

1933年9月、TB−1の翼上にポリカルポフI−5戦闘機を2機搭載。

Zveno−2

1934年8月、母機がTB−3重爆撃機になり、I−5戦闘機を翼上面に2機+胴体中央上面に1機搭載。

Zveno−3

I−Z戦闘機を、特別なアタッチメントを介して主翼下面に2機搭載。 Korotkov飛行士の乗るI−Zは、テスト飛行中にTBの主翼と接触し、死亡。

Zveno−5

35年4月、胴体中央下部に鋼管で構成された(離着陸時には引き込み可能な)アームとフックにより、I−Z戦闘機の空中回収、発進をテスト。(硬式飛行船アクロン号のスパローホークの回収装置を参照)

Zveno−6

35年8月、TB−3/AM−34の翼下面に2機のI−16(tip-4/5)を搭載。

Zveno−7 (Aviamatka-PVO)

主翼上にI−5戦闘機を2機、主翼下にI−16戦闘機を2機搭載し、胴体中央下部のアームでI−Z戦闘機を一機空中で回収した。
(PVO=防空軍 戦闘機の滞空時間を延長することで、都市部、及び工業地帯の効率的な防空体制の構築を企図したもの。)

Zveno−SPB

乗員 全備重量 最大速度 爆弾搭載量
ALT 0m 3000m
8+2 22,000kg 230km/h 268km/h 100kg*4
500kg*4

37年7月、主翼下に250kg爆弾2発を搭載した(自力での離陸が不可能なほど過荷重状態の)I−16SPB(急降下爆撃型)を2機、主翼下面に搭載。
行動半径の広い「複合」急降下爆撃機としてズベノ計画中唯一実戦投入されています。



さて、37年(第二次5ヶ年計画の終了)前後に、スベノ計画の運命を変えた2つの事件がありました。
一つはスペイン内戦、もう一つは「大粛清」です。


スペイン内戦と機構改革

39年3月の第18回党大会で、国防人民委員のヴォローシロフは(34年に比べて)空軍の保有する機種間の比率が変化し「より一層強力になった」と演説しています。

機種 1934 1939
重爆撃機 10.6% 20.6%
軽爆撃機他 50.2% 26%
戦闘機 12.3% 30%

しかし、スペイン内戦(1936.7-39.3)やノモンハン事変で外国機と交戦した経験から自国の装備が旧式化しつつあることを認識、39年初めには航空関連各分野の専門家を集め、検討した結果、複数の設計局を新設し、近代的な軍用機の大規模な競作が行われ、有望な機種は予備的なテストの後制式採用されました。 また、エンジンや機体の組み立て工場も新規に建造され、生産ラインの拡張と再編成も同時に行われました。
41.2.25には防衛人民委員部が作成した空軍再編成計画案が、共産党中央委員会と人民委員会によって承認され、新しい部隊の編成と装備の更新が進められています。


大粛清

37年には社会のあらゆる階層の「反革命」「反ソ扇動」分子に対して、スターリンによる大弾圧が行われました。
37−38年だけでも、NKVDによって68万1692人が銃殺され、(36年は1118人)新しい軍事理論の推進者であるミハイル・トハチェフスキーも、その友人でZveno計画の理解者である空軍司令官アルクスニスも、このスターリンによるテロルの犠牲となりました。

結果、TB−3の後継機開発は停滞し、戦略爆撃の思想は「資本主義世界の遺物」として切り捨てられ、戦術爆撃向きの中型爆撃機や攻撃機の生産に比重が移って行きました。
Zveno計画の規模も縮小し、既存の機体を利用した実験だけが許される状態になってしまいます。


実戦記録

Zveno−SPBによる実戦記録は、(多分)同エピソードに対し複数のバリエーションがあり、事実を検証するまでには至りませんでした。
よって以下は実戦行動の記述をそのまま記すことにします。

最初にして最後の出撃は41年8月に実施された。
黒海の飛行場を離陸した「TB−3に搭載された2機のI−16SPB」は、ルーマニア領内に侵入、ドナウ川に架かる重要目標であるチェルナボダ橋を爆撃、これを破壊。 3機共無事ソ連領内に帰還した。(航空ファン89年9月号)

TB−3/AM−34母機6機とI−16SPB12機からなる実戦部隊が編成された。 詳細が判明している唯一の作戦行動は、41年8月25日、ルーマニア、チェルノボドのドナウ川橋梁の破壊成功だった。(週刊エアクラフトNo.196)
41年8月25日、SPB 12機を搭載したTB−3重爆撃機6機がルーマニアのドナウ河に架かるきわめて重要なチェルノボド鉄道橋の上空に飛来した。 SPB 12機全部が攻撃を加え、それぞれ2個の250kg爆弾を投下してこの遠距離の困難な目標を破壊した。(週刊エアクラフトNo.201)

1940年早期に、ツポレフTB−3/AM−34RN四発爆撃機改造母機6機と、ポリカルポフSPB高速急降下爆撃機12機で実戦部隊が組織され、黒海沿岸のエフパトリア基地に配備されたが、この日(1941.8.25)3機がルーマニアのツェルナボダのドナウ河鉄橋(コンスタンツァへの鉄道橋)の攻撃作戦に出撃し、これを破壊するのに成功、3機とも無事ソ連領内に帰還した。 同部隊はその後クリミアの基地からも作戦したといわれるが、戦果は不明。(年表世界航空史 第三巻【第二次世界大戦】)

TB−3/AM−34RN、6機とI−16SPB、12機からなる部隊は、クリミア半島の保養地、Evpatoriaで41年に編成されました。
主に黒海沿岸を舞台に(Evpatoriaが独軍に占領される41年10月末まで)29ソーティーを実施しています。
高速で小柄なI−16改造急降下爆撃機は対空砲に補足されにくく、船舶、橋梁、パイプライン等の高い名中精度を要求される目標に対して多用されました。
29回の出撃中3機のI−16が失われただけで、母機であるTBの損害はありませんでした。

41年7月26日、ドイツ占領下のルーマニア、コンスタンツァの石油精製施設を、2組のズベノ、計4機のI−16SPBで爆撃。
これはスベノとして投入された最初の出撃でした。

41年8月25日、(13日夜説も有り)ルーマニア、ドナウ川に架かるChyernovod(コンスタンツァへ向う)鉄橋を爆撃。
対空砲によって防御されたこの橋へのIl−4による攻撃は効果を上げていませんでした。
目標に接近したTB−3は、翼下の2機のI−16を分離し、計4個の250s爆弾でパイプライン及び橋を破壊。 切り離されたI−16は母機を護衛しつつ帰投しています。




Pe-8(TB-7)


I-17
(TsKB-19)





FICON


Goblin

最後に

Pe−8(TB−7)+I−17やMig−3の組み合わせによるスベノの構想があったようですが、残念ながら実現されていません。
TB−3は42年までに後方任務に引退し、後を継いだIl−4やPe−8から成る長距離爆撃機隊は、開戦初頭に敵地後方の工業施設を叩いて一矢報いたものの、敵地上部隊の侵攻により阻止爆撃へと振り分けられてしまいました。

P−51やP−47といった、優秀な単発護衛戦闘機の出現と使い捨て燃料タンクの普及により、親子飛行機のアイデアは廃れたかに見えました。

しかし、ドゥーエ流の戦略爆撃思想の継承者であるアメリカは、40年代末から50年代中旬にかけて、B−36の爆弾倉内に戦闘機を半ば収容したり(FICON計画)、翼端に「連結」したり(Tom-Tom計画)、爆弾倉内に完全に収まるほどコンパクトなジェット戦闘機(F-85 Goblin)を試作するなど、空中給油の技術が確立されるまで思考錯誤しています。
B−36の後継機であるB−52は、核抑止の手段として冷戦時代に登場しましたが、今は遠距離の固定目標を攻撃する巡航ミサイルの母機として使われています。
戦略爆撃の任を解かれた大型多発機が、近い将来、(Zveno-SPBのように)無人戦闘機を翼下に吊るして非対称型戦争に投入される日がやって来るかもしれません。

2003年5月22日 更新 HOME

赤色空軍の軍用機 1925−1937

 ソ連の航空工業は第1−2次5ヶ年計画(1928-37)で、輸入やライセンス生産などの他国への依存を完全に脱し、機体やエンジンの国産化、及びその大量生産体制を実現させました。
 
ツポレフ TB−1(ANT−4) 初飛行 1925.11.24 乗員 5-6
全長 18.0m 幅 28.70m 全高 6.09m 自重 4520kg 全備重量 6,810kg
翼面積 120m2 エンジン M17 680hp×2
速度 174km/h (3000) 178km/h(S) 上昇限度(m) 4830 上昇率(m/min) 3000 / 21
航続距離 1800km 武装 7.62mmMG * 6
生産数 29-32年まで218機(R型66機含) 搭載量(kg) 1000/最大2300
構造 全金属製片持式単葉双発、ユンカース式波板応力外皮構造
備考:ソ連製大型多発機の原型
バリエーション:R−6偵察機、R−6P(フロート付)、PS−7輸送機、G−1空挺部隊輸送機
MTB−1雷撃機、TB−1P水上偵察爆撃機など
29年8−11:モスクワニューヨーク連絡飛行(全行程21,242km、137時間、平均150km/h)
34年2−4:北極海で遭難した調査船チェリュスキン号の救難飛行
離陸補助ロケット、空中給油、(TB-1の)無線誘導、コンテナによる重量物パラシュート投下など各種テストに使用されている。

I-4 I-4bis
ツポレフ I−4 (ANT−5) 初飛行 1927.1 乗員 1
全長 7.28m 全幅 11.4m/5.7m 全高 自重 974kg 全備重量 1426kg
翼面積 23.8m2 エンジン M22 480hp(初期型はGnome-Rhone Jupiter-VI)
速度 247km/h 上昇限度(m) 7120 上昇率(m/min) 3000 / 6.7
航続時間 2h18min 武装 7.62MG * 2
生産数 28年10月-34年1月末まで370機 搭載量(kg)
構造 全金属製、ユンカース式波板応力外皮構造 主翼は一葉半
備考:スホーイ(P.O.Sukhoj)の設計による初の国産全金属製戦闘機
I-4Zvenoは下翼を左右各半分(50cm)に切り詰めている
下翼を廃し、上翼を再設計したI-4bisや、双フロートの水戦タイプI-4Pはテストのみ
無反動砲(*76mm DRP)のテストベッド(試験中に爆発)、ハンドレページ式スロッテッド・フラップ
離陸補助ロケットなど、各種テストに使用

 
ツポレフ TB−3(ANT−6) 初飛行 1930.12.22 乗員 8
全長 24.4m 全幅 39.5m 全高 8.5m 自重 全備重量 21,000
翼面積 230m2 エンジン M34 900hp(過吸器付き)
速度 250-288km/h 上昇限度(m) 7000 上昇率(m/min)
航続距離 2,470km 武装 7.62mmMG * 8
生産数 32-37年まで各型計818機 搭載量(kg) 通常 2t 近距離攻撃時 5.8t
構造 全金属製片持式単葉4発、ユンカース式波板応力外皮構造(後期型は平滑板整形)
備考:TB−1をほぼ2倍に拡大した当時世界最大の陸上機。
ソ連航空工業の発展を象徴する存在であり、その先進的な設計は後に各国で開発された大型多発機のモデルとなっている。
37年:全航程24,000kmに及ぶ北極圏調査飛行、シュミット隊の北極探検支援、同年3−6月にかけて北極海観測飛行他。
36年9月:重量搭載の国際高度記録を樹立(5t搭載で8,116m、10t搭載で6,605m、翌年1t搭載で12,246m)

 
ポリカルポフ I−5 (Po) 初飛行 1930.4 乗員 1
全長 6.78m 全幅 10.2m/7.4m 全高 3m 自重 943kg 全備重量 1,355kg
翼面積 21.25m2 エンジン M22 480hp
速度 280km/h (s) 上昇限度(m) 7300 上昇率(m/min) 3000 / 10.9
航続距離 660km 武装 7.62mm * 4
生産数 803 搭載量(kg) 40
構造 木金混合骨組み羽布張り
備考:
ポリカルポフとGrigorovichが収容所内で設計(I-5の成功により後に釈放)
それまでに生産された国産戦闘機中最も軽量で高速、旋回半径が小さく可動率が高い
機銃4丁装備も国産初
30-35年のソ連の代表的な戦闘機
独ソ戦初期まで練習機として使用されている
*I-5までに生産された戦闘機の自重
名称 I-1 I-2 I-3 I-4 I-5
kg 1112 1152 1420 974 943

 
グリゴロビッチ I−Z (Gr) 初飛行 1933 乗員 1
全長 7.90m 全幅 11.0m 全高 自重 1,140kg 全備重量 1,648kg
翼面積 19.50m2 エンジン M22 480hp
速度 259km/h(s) 上昇限度(m) 7000 上昇率(m/min) 358 / 1
航続距離 600km 武装 76.2mm無反動砲 * 2 / 7.62MG * 2
生産数 71 搭載量(kg)
構造
備考:90機生産されたGrigorovich IP-1の原型
対重爆撃機用に開発、生産された数少ない無反動砲搭載戦闘機の一つ。

 
I−16tip−5 初飛行 1933.12.30 乗員 1
全長 6.0m 全幅 9.0m 全高 自重 1,118kg 全備重量 1,508kg
翼面積 14.54m2 エンジン 空冷星型9気筒 M25A 740hp
速度 445km/h (3000m) 上昇限度(m) 9100 上昇率(m/min) 3000 / 4
航続距離 540km 武装 7.62mmMG * 2 RS-82 * 6
生産数 42年までに各型計1万機以上 搭載量(kg)
構造 木製モノコック(一部鋼管骨組み)主翼と尾翼の一部は羽布張り
備考:I−15と共に開発された世界初の低翼単葉引き込み脚戦闘機
優れた上昇性能と加速力を持つ反面、縦安定に欠け、操縦するのが難しい機体だった。
金属の使用を極力避け、地方の工場でも材料の調達や製造が可能なよう配慮されている。
35年から大量生産されたtip−5は、ライト・サイクロンFを国産化したM25Aを搭載、操縦席後方に8mm防弾板を追加している(以後標準装備) 高速急降下爆撃機型SPBは、主翼を補強し、緩降下ブレーキと空気圧作動の降着装置を追加したもの。

護衛戦闘機の必要性と限界
戦闘機は爆撃機に対して速度と機動性故に主導権を握っており、爆撃機がそれに対抗するには速度と高度の優位、及び死角を廃した防御機銃の配置が必要になるが、大型機の開発は戦闘機よりも難易度が高く、維持するのも困難な為、最も現実的な選択肢として護衛専門の戦闘機が必要となる。
しかし、戦闘機の燃料タンク容量は機体サイズに拘束されていて航続距離が短く、爆撃機を最後までエスコートすることができない。
世界初の親子戦闘機実験
ツェッペリン飛行船を邀撃する戦闘機の行動半径を拡大するために、フェリックストゥ・ベビー3発飛行艇の翼上にブリストル・スカウトCが一機搭載され、高度300mでの空中発進に成功。 2機共無事帰投しているのですが、何故かテストは継続されず、実戦投入もされていません。
V・P・チカロフ
Valery.P.Chkalov
数多くの長距離飛行記録を塗り替えたANT-25RDによる北極圏調査飛行、37.6.18-20 Moscow-Vancouver間9,650kmを飛行した「スターリン空路」号機長など、国家的イベントに参加しているベテランパイロット。
5ヵ年計画
国力の基礎となる重工業を発展させるために、必要な労働力を農村部から(強制的に)確保し、増大した都市人口を養う食料を、農業の集団化で得ようとした。 計画経済のモデルとなる世界初の試み。 独ソ戦を勝利に導く布石となったものの、集団農場の普及した農村部では、伝染病と弾圧と飢餓により数百万人が犠牲となっている。
戦術爆撃
地上部隊と協力して敵の部隊を攻撃する「近接航空支援」や、前線への敵軍事力の展開、増強を阻止する「航空阻止」を含む、前線での敵地上部隊などに対する攻撃の総称。
戦略爆撃
敵の軍隊を直接相手にせずに、人口密集地や産業施設、発電所、石油精製施設、道路、鉄道、橋梁、軍事施設、指揮統制機能などを爆撃することで、敵国の国力を削ぎ、戦争を短期に終わらせるというイタリア陸軍の退役将校ドゥーエ(Giulio Douhet)が提唱した理論
エンジン
Mikulin M-17/M-34
BMW-VIをベースにミクーリン設計チームが発展させた水冷V型12気筒の標準国産エンジン M-34は複数の設計チームによる競争試作を勝ち抜いて、国内で設計された最初のエンジン。
M-22
傑作空冷エンジンBristol Jupiter IVをライセンス生産。 
クルチェフスキー・ダイナモキャノン
L.V.Kurchewskiが36年2月に逮捕されるまで研究、開発していた無反動砲 砲弾発射時の反動を逆方向に錘を発射することで打ち消すという発想だった。 詳しくは 岡部いさく著「世界の駄っ作機」大日本絵画 File No.27参照の事 
I−15と16
航空機の基本形態が複葉から単葉へと移行する過渡期、空軍科学研究所では次期主力戦闘機は両者の利点を生かした混成部隊が理想的であると結論した。
高速単葉機が敵の編隊を一撃離脱してかく乱し、複葉機が運動性能を生かしてこれを撃破するというものだった。 この構想を具現化したのが「高速単葉機」I−16と「軽量複葉機」I−15である。
Polikarpov I-15
Year: 1934 Engines: M-25 715hp
Wing Span: 9.75m Length: 6.1m Wing Area: 21.9m2
Empty Weight: 960kg Max Weight: 1369kg
Speed: 367km/h Climb: 3000m/3.3min Ceiling: 9800m Range: 600km
Armament: 7.62mmMG * 4 12.7mmMG * 2 Bombs: 100kg

後にスペインやモンゴルでの戦訓からこのような混成部隊の組織的な行動が非現実的であるとして否定されている。 
赤軍の粛清による人的被害
階級 粛清前の人数 犠牲者数
元帥
第一級の軍司令官
第二級の軍司令官 12 12
軍団司令官 67 60
師団司令官 199 133
旅団司令官 397 221
連隊司令官 半数
海軍大将 10 10
海軍中将 15
陸軍政治委員 17 17
軍団政治委員 28 25
師団政治委員 97 79
旅団政治委員 36 34
(ソ連邦史2 1927−1941 G・ボッファ著 大月書店)

参考資料一覧

ソ連の翼−ソ連航空の全貌 野沢正・片桐敏夫・堀江豊/共著 昭和50年5月発行 朝日ソノラマ
ソ連航空機−その技術と設計思想 ヤコブレフ著 遠藤浩訳 1982年3月発行 原書房
航空ファン連載「赤い星が生まれた−ソ連空軍概史」八巻芳弘著 89年5/7/9 90年1/9月号他
ソヴィエト赤軍興亡史1−革命国内戦争篇 2001年1月発行 学習研究社
大粛清への道 アーチゲッティ+オレグ・V・ナウーモフ編 2001年10月発行 大月書店
戦略研究学会編集−戦略論大系 Eドゥーエ 瀬井勝公編著 2002年5月発行 芙蓉書房出版
WAFFEN-ARSENAL Band44 Russische Jagdflugzeuge 1920-1941 1978発行 PODZUN-PALLAS-VERLAG

参考サイト
(04年5月16日 リンク確認)
WWW.AVIATION.RU http://www.aviation.ru/
Russian Aviation Page http://internetelite.ru/aircrafts/
Russian Aviation Museum http://www.ctrl-c.liu.se/misc/ram/
Aerostories http://aerostories.free.fr/
Bereznyak-Isayev BI fighter jet http://www.aeronautics.ru/nws001/bi/


2005年6月13日 更新 HOME